フロアに流れるBGMが室内に響く喘ぎ声をかき消すなどと誰が信じたのだろう。それともBGMが二人の間にロマンチシズムなる思想を取り込み、仲を深める手助けをするというのだろうか。理由は分からない。それはともかく部屋に備えてあるテレビの電源が入らないのだ。1人で来たとはいえ、あまりにも理不尽すぎる仕打ちだ。何度、リモコンの電源ボタンを押しても付かない。従業員が室内に入るための口実を仕掛けたのだろうか。
今宵は土曜日だというのに静かな夜だ。まるで誰もいなくなったクリスマスの夜のよう。雪も降っていないしむしろ夏だというのに。BGMの中で歌う女性ボーカリストも無観客の夜だとメンツが立たないだろうに。どうか助けてあげてほしい。人々はどこへ消えたのだろうか。土曜日の夜はラブホテルでセックスをするのがお決まりではなかったのか。
フロアに響くもう1つの音。従業員の清掃の音だ。ガヤガヤと1番喘いでいる。立派なものだ。汚れはしっかりゴシゴシしごかないと取れないから。
私がなぜ一人でラブホテルに来ているのか。それを従業員が喉から手が出るほど知りたいとしても教えることはできない。もちろん、従業員が仕掛ける生半可な駆け引きになびくほど未経験ではない。従業員にとってのこの得体のしれない初体験はよく分からないまま終わるだろう。
隣の部屋から聞こえたやるせない喘ぎ声と、もう一方の部屋から聞こえてきた野太い声の男性の「慰謝料」や「別居」という話し声。その度に女性が反論か提案か分からないような調子でやや感情的に話している。それを男がうんうんと聞いている。
まるで白熱する法廷だ。たが、1つ違うとすればそれをジャッジする者が不在だということだ。それがゆえに女性のトーンもヒートアップし壁を突き破りそうな気配さえある。
私は、両者の声に壁越しに耳を傾けていた。
公平なジャッジを下すにはまだまだ情報が足りない。論証が足りない。だが、どうやら男は不倫の証拠を握られたようで、その対応に迫られている被告だということを推認できる。彼は悪あがきをするつもりはないらしい。せめてもの情状酌量を、と。
一方で、彼女の方は納得できていないようだ。男に対して不満がある。それは声のトーンから見て取れる。
彼の態度からして実刑は重すぎる。執行猶予はつけて差し支えないだろう。だが、時折、男が笑うのだ。ふざけているのかと思うぐらいの笑い方をするのが少し気になる。あなたは不倫の当事者じゃないのか、と言いたくなるぐらいに。それとも笑うことで現実逃避を図ろうとしているのか。いずれにせよ心象は悪くなる。
でも、なぜその議論をラブホテルでしなければならないのだろう。当初はそんなつもりはなかったのにそうなってしまったのだろうか。
話がまとまる気配もないし、ジャッジを下す者もいっこうに現れない。
夜明けにはまだまだ程遠い。そして壁越しでもクリアに聞こえてくる。