0.02%の金持ちになるには

大半の庶民と何が違うのか

ビジネスホテルの覗き穴

僕は今、ビジネスホテルの部屋にいる。
有名な寝具メーカープロデュースのセミダブルベッド、過不足のない各種アメニティ、掃除のプロによってきれいに清掃された部屋。
今日はお盆休みのうちの1日だからいつもより多いようで、扉の外から宿泊客が出入りする足音や話し声を聞くことができる。
僕はほぼ直感的に扉の覗き穴に左目を固定する。
まるで、満天の星空を高性能の望遠鏡で見るみたいに。
そこに派手な色のかごを持った初老のおじさんが立ち止まる。
部屋の鍵を鍵穴に躊躇なく差し込み、僕のいる向かいの部屋の扉を開けるのが確認できた。
1人で泊まっているのだろうか。
おじさんの持つかごの中にバスタオルが1枚だけ入っている。どうやらホテル併設の大浴場から戻ってきたようだ。
白髪混じりの短髪に細くて黒い縁の眼鏡をかけている。
どこにでもいるようなTheビジネス客に見える。
僕はそのおじさんが部屋に入り、扉が閉まるのを見届けてからベッドの上に座った。
ここで昔、大学で「対呈示」という概念を習ったのを思い出した。
見惚れるほど眩しい、白のシーツの折り目にプロの技術が宿っている。
パッと見た感じではラブホテルのベッドにしか見えない。だけれど、よく見てみるとラブホテルのシーツにはしわが当たり前のようにあったのに対してこのビジネスホテルのベッドのシーツにはしわ1つなかった。
こんな、美しいベッドの上で同じように美しい女性とセックスができればな。
ベッドを見ただけでセックスを連想してしまう。
これが心理学的に言う「対呈示」だ。
いやらしい妄想にふけるのを阻止するかのように若い男たちの笑い声が聞こえてきた。
僕は即座に覗き穴に直行する。まるで多くの人に求められていない、そして社会的にも認められていない闇の仕事をするみたいに。
覗き穴に人の姿はない。だが、男の声は聞こえる。
思春期で声変わりをしてまだ時がそんなに経過していないような声に聞こえるからおそらく高校生か大学生ぐらいだろう。
僕のいる右隣の部屋の扉をカチャカチャと音をたてながら開けている。
若い男たちの姿が見えないまま、笑い声も消えた。
そしてまたベッドの上に座る。
口寂しい時に実家に置いてある乾きものを手にとるみたいにベッド横の木製の台の上にそっと置かれたテレビのリモコンの電源ボタンを押す。
昔よく泊まっていた田舎のビジネスホテルではAVが無料で視聴できたが、このビジネスホテルには1000円カードを入れるための挿入口すらなかった。
テレビの画面にもさっき見たような初老のおじさんがああだこうだ言いたいように言っている。
そしてテレビを消す。
冷蔵庫や冷房、換気扇の音と外を走る車の走行音と時計の秒針の音だけしかしない。
でもよく考えてみればそれだけでも十分騒がしかった。
それは僕がふと、部屋の壁に耳を押し当てた時にそれらの無機質な音がうるさいと感じたからである。
隣の部屋からかすかに若い女性の声が聞こえたのだ。その瞬間、下半身が熱くなり、身体全体がじーんと気だるいような重いような独特な感覚に襲われるのを止められなかった。そこで慌ててカーテンを閉めた。誰かに見られているような気がして、仮に見られていると思うと嫌だからだ。
女性の声が聞こえたのはさっきの若い男たちの部屋ではない。
僕の左隣の部屋だ。
冷蔵庫や冷房、換気扇の電源を切り、再度、壁に耳を押し当てる。
すると男性の声も聞こえてきた。
その後は女性と男性の声が交互に少しずつ聞こえてくるだけで何を話しているのかまでは分からなかった。
僕はこの時、浮気調査をする探偵になったような気がした。
もし、この男女が不倫関係なら、もし、この女性が右隣ではしゃぐ男たちの一方の妻なら、もし、この女性が今、向かいの部屋に入って行った初老のおじさんの娘なら、いろんなことを妄想した。妄想するだけで楽しかった。
しかし、冷静になって考えても隣の部屋から若い女性と男性の声が聞こえてくるというのはとても興奮するものであった。
2人がカップルや夫妻だとして今夜、夜の営みをしないわけがない。
そう思ったからである。
現在、時刻は午後6時過ぎ。
時折、覗き穴を確認してみると、夕食に出かけるのか、人の出入りが慌ただしい。
案の定、隣のカップルもどこかに出かけてしまった。
ドアを開ける音と覗き穴によって確認済である。
年齢は20代半ばといったところか。
どちらかと言えばムッチリ体型のエロス漂わせる女性である。
二の腕がそれを物語っている。
肥満とは種類の違う、エロスのためのムッチリ体型だ。
だが、特別、美形というわけでもなさそうだ。
対して、男は同窓会で再開しても誰にも名前と顔を覚えていられないような空気のような男であった。
だが、ささやかな茶目っ気はありそうである。
男がムッチリ女に対して笑いながら何かを言っていたからだ。多分、おもしろくはないのだろう。頑張って彼女を笑わせようとしているけれど、愛想笑いしか得られない。だが、茶目っ気はある。
そんな男とムッチリ女が部屋に戻ってきたのは、それから2時間が経過した時だった。
僕はそれを覗き穴越しに確認すると、すぐに自分の部屋の壁に耳を押し当てた。
やはり、男と女の声がする。
美味しいものでも食べてきたのだろう。
会話が僅かながら弾んでいるようにも聞こえた。
時刻は午後8時過ぎ。
今夜は徹夜を覚悟でずっと耳をすませば必ずやエッチな音声が耳に入ってくる。
そう期待した。
それから1時間が経過するまでの間にシャワーを浴びる音、ドライヤーの音、トイレットペーパーを手に取る音、ビデの音(ビデかどうかは分からない。願望である)、トイレの扉を閉める音、何かの袋を開ける音。様々な音が聞こえてきた。
これらも夜の営みへのファーストステージだと考えればとても興奮するものに思えた。
だが、1時間が経過してもそれらしき音声は確認できなかった。
ずっと立ったまま海外の銅像のように同じポーズで壁に耳を押し当てる自分はまるで業務をこなしているかのようだった。
自らの好奇心がそうさせたとは言え、ここまでくるともはや使命のようなものさえ生まれていた。
そして名前も形も持たない目に見えない何かが僕の周りを囲って応援してくれているような気もした。
とは言え、耳も次第に痛くなるし、立ったままじっとしているのもきつかった。
しかし、その時は突然訪れた。
会話が途切れた後で一瞬、あえぎ声のようなものと水の流れる音が聞こえたのである。
そしてよく聞いてみると声が響いているのである。
2人してバスタブにいるのだろうか。
そう思ったが、よく考えればさっきドライヤーの音がしていた。髪を乾かした後にまたシャワーを浴びるだろうか。エッチをするための場所としてバスタブを選んだ可能性も否定はできないが、声が響いているのは彼女が単に大きな高い声を出しているからだけかもしれない。
僕は最初に女性の声が聞こえてきた時よりもさらに興奮し、下半身が熱くなるどころか、勃起もしていないのに何か得体のしれないものがじわじわと下半身の奥の方から溢れ出してくるようだった。
むずむずして立っていられなくなるぐらいに。
注意深く耳を澄まして、全神経を壁の向こうに集中させる。
その時、彼女の笑い声が聞こえてきた。その笑い声は本当におもしろい時に思わず溢れ出してしまうような笑い声だった。少なくとも僕にはそう思えた。
何かおもしろいことが起こったに違いない。
でも、あえぎ声が聞こえた直後である。エッチ中のいいムードの時に笑いが起こるとすれば、どんなものだろう。僕はあれこれ考えを巡らしてみた。
その間にも、2人のいい感じの声がずっと聞こえていた。
それは話が盛り上がっているような声である。
この時点で、さっきのあえぎ声は僕の聞き間違いか願望が暴走した末の幻聴のようなものかもしれないと思った。
2人は単にベッドの上で今日の出来事を振り返ったり、明日の予定を練ったりしているだけなのかもしれない。
または、そもそもセックスなどしておらず、兄弟の可能性すらある。
逆に言えばそれぐらい一瞬で微かなあえぎ声(あえぎ声のように聞こえた)だった。
とても耳がいい前提で(よく地獄耳だと言われていた)、周囲の雑音を全てシャットアウトした上で壁に耳を押し当て、全神経を壁の向こうに集中させた時にしか聞こえないような音だった。
それは彼女自身がビジネスホテルの一室だから、周囲の宿泊客(僕も含めて)に配慮して、または恥ずかしいから遠慮がちな声になっているからなのだろうか。
それとも、無音のうちにセックスを完結させているのだろうか。
そうこうしていると、また、あのあえぎ声のようなものが一瞬聞こえた。本当に微かな音である。
「あん…」と。
僕にはそれが挿入した瞬間の男性器を受け入れた合図のようなあえぎ声に聞こえた。
もしくは射精の瞬間の男性器が女性器の中でビクビクと左右上下にうごめいている時の女性の、声にならない声にも聞こえた。
その後、沈黙が続く。だが、吐息は部屋中に溢れているのかもしれない。
僕もハアハア言っていた。心臓がバクバクして、心拍数が凄まじく上昇していた。
心臓部分に手を当てなくても、バクバクしているのが壁の向こうの2人にも気づかれそうなぐらいに動いていた。心臓はこんなにも暴れ回るのかとびっくりした。
そして、これぐらいドキドキする恋愛をしてみたいとも思った。
彼女のあえぎ声は、AVのような、いかにも感もなければ無駄に大きな音でもなかった。
だからと言ってマグロでもなかった。
また、密室の男女が必ずやり遂げなければならないある種の儀式のようにも感じられた。
2人は挿入しているのか、彼女に咥えてもらっているのか、はたまた彼女の湿った肉厚な割れ目やそれに沿うように流れる複雑なスジなどを男が唾液を交えながらなめまわしているのか、分からない。
下手をするとセックス自体、していないのかもしれない。
聴覚しか頼る部分がないため、その分、感覚や想像力が研ぎ澄まされる。
このセックスは音声だけだから興奮するのだ。
仮に、僕が合鍵で隣の部屋に入って、その全てを見たとしても、ここまでの興奮は得られないだろう。
見えないがゆえのエロス。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
次の日の夜、自宅に帰った僕は壁を見ただけで興奮してきて、また同じように壁に耳を押し当てた。
だが、何も聞こえなかった。