0.02%の金持ちになるには

大半の庶民と何が違うのか

路地裏ナース

師走の風が肌を通り抜け、身体全体が冷たくなっていくのを感じながら僕はひたすら自転車を漕いでいた。
ちょうど日付けが変わって1時間が経過しようとしている街はいつもとは違う夜更けの序章へと僕を案内しているように感じられる。
今、僕の自転車のかごにはゴミが入ってある。
このゴミは今日の昼過ぎ、自宅の庭に放り込まれていたものだ。
おにぎりのゴミや空のペットボトル、タバコの吸い殻にお菓子のゴミなどがコンビニの袋に入れられたまま放置されていた。
それを今、然るべき場所へ捨てようとしているわけだ。
だが、一向にゴミ箱が見つからない。
幼少期の記憶では公園にもコンビニにもゴミ箱はあったのに。
今、僕は自転車を走らせたままゴミ箱難民と化していた。
同時になぜ、何の落ち度もない僕が身勝手な不法投棄者のためにこんな理不尽な思いをしなければならないのか。
そんな苛立ちが外気をより冷たくさせた。
僕はジャンパーのポケットに入れてあった手袋をはめた。
自宅を出る際はすぐにゴミ箱を見つけて帰ってくるつもりで外に出たのに気がつけば公園をぐるぐるとサイクリングしているだけになっていた。
それで手が冷たくなって耐えられなくなり、手袋をはめたのだ。
どこかにゴミ箱がないかと右往左往する内に普段は行かないような場所にまでその範囲は及び、ふと、左を向くとすぐ隣に若い女性がしゃがみこんでいた。
彼女は小さな商店とアパートに挟まれた狭い道路上に佇んでいた。
僕が走っていた通りはバス道で比較的広く、彼女がいた場所は狭い路地裏だったから左を向かなければ気がつかなかっただろう。
僕は立ち止まり、反射的に彼女を観察していた。
ちょうど後ろ姿に彼女はなっていたが、地べたにスマートフォンを置き、うつむきながら誰かと会話しているようだった。微かに彼女が「うん」と相槌を打ち、男のしゃべる声がスマートフォンから聞こえてきたのだ。
彼女は地べたに置いたスマートフォンを見つめたまま僕の存在には見向きもせず、小さな声でスマートフォンの向こうの男とコミュニケーションを交わしているようだった。
僕が彼女を観察したのはやはり下心からだろう。
夜中の暗くて誰もいない路上に若い女性がしゃがみこんでいる。しかもシルエット的に僕の好みだ。
こんなシチュエーション、なかなかない。
それだけで僕は興奮して、あわよくばという思いがあった。怪しまれないように「ゴミ箱の場所分かりますか?」などとゴミを手に持ちながら尋ねてみようか。そんな戦略も頭をよぎった。しかし、彼女が男と電話しているようだったので、声をかけることは断念し、僕は彼女の美しい後ろ姿を目に焼きつけながら再び、自転車を走らせた。
相変わらず冷たい風がジャンパーをも通り抜けそうだ。ゴミ箱を探し回り疲れたせいか、のろのろ運転になってしまっている。
昔は当たり前にあったゴミ箱はまだ見つかっていない。
なぜ僕がこんな思いをしなきゃならないのか。
こんな可哀想な僕には、さっき目にした路地裏の女の子と戯れる権利ぐらいあるのではないだろうか。癒される権利が。
やはり彼女のことが気になる。もう一度だけ彼女を観察しに行こう。
そう思い立ち、僕はくるりと自転車を転回させ、再び、彼女がいる路地裏に戻った。
しかし、もう彼女はそこには存在しなかった。
警戒して逃げられたのかもしれない。
もたもたしていたからだ。ちくしょう。あーあ、疲れた。
よくよく考えれば自転車のかごに入ってあるゴミだって自分のじゃないのだからその辺に捨てちゃえばいいのだ。
なぜ他人が捨てたゴミをご丁寧に寒い中、ゴミ捨て場を探すところから始めなきゃならないのだ。
そんなことを考えながら、かごに入ってあるゴミをにらみつけていた。この場から手品みたいに消えてくれないかな。
そして彼女は逆にもういないのだ。僕の人生はがらくただけのものなのか。とは言え、彼女が消えたのは僕がもたもたしていたからだ。とっさに声をかければよかった。
犯罪者なら最初に彼女を見かけた瞬間にとっさに刃物を突きつけるのだろう。僕はそこまでしないにしろ、こうしてうろうろしているのだからその予備軍とあまり変わらない。情けなくなった。
でもやめられない。そして注意深く辺りを見回す。やばい、心臓がドキドキしている。どこにいるのだ?その数秒が丸1日ぐらいに感じられた。と、その時だった。彼女がいた目の前に3階建てのアパートがあり、そこからなんと、階段をのぼるヒール?のカタカタという音が聞こえてきたのだ。そのアパートは新築の真新しいアパートといった感じだ。
彼女かもしれない。
僕はアパートを見上げながら思った。だが、姿は見えない。そして、階段をのぼる音だけが聞こえた後、夜の静寂が身を包んだ。しーんと。そして寒い。孤独だ。
くそー、ムラムラさせるだけさせて逃げやがった女。
自転車を走らせながら沈黙の中で吐き捨てた。
逃げるぐらいなら夜中に1人で路上にしゃがみこむなよ。無防備すぎるだろう。
ゴミ箱が見つからないこともあって余計に腹が立った。
その後、付近のコンビニを何軒か見たが、やはりゴミ箱が見当たらない。
僕はとうとう諦めて、悪いと思いつつも、住宅街のゴミステーションにそっと置かせてもらった。
然るべき場所であることに変わりはない。僕はゴミの前でなんとなく手を合わせた。墓参りをするみたいに。こうしておけば天罰は下らないだろう。
そして、ここは彼女が入って行ったアパートの近くでもある。彼女もおそらくここにゴミを毎週出しているのだろう。そんなことを想像してみた。
僕は妙な征服感を味わった。
彼女の所で処理した、と。
こうしてゴミから解放された僕は自宅へ帰ろうと自転車を走らせた。清々しい気持ちが半分、残りは、なんだかもどかしい気持ちだけだった。
ついでにもう1回だけ彼女が入って行ったであろうアパートを見てみよう。もう1回だけだ。
僕は狭い路地を再び自転車でゆっくり進入した。
そして、あの彼女がいるであろうアパートを通り過ぎようとした時、そのアパートの小さなエントランスを見ると、なんと彼女が立っていた。僕はドキッとした。一瞬怖くなった。警察に通報されるかもしれない、と。
しかし、よく見ると僕を見て手招きしているではないか。
奇妙だ。さっき逃げたと思ったのは僕の勘違いだったのだろうか。それとも僕は変な夢でも見ているのだろうか。警戒しているはずの彼女がなぜ手招きを?
とにかく彼女は僕を見ながら手招きしていた。
僕は都合よくそれをある種の歓迎だと受け取り、さっそく自転車を停め、エントランスへと歩みを進めた。自動扉になっていて、彼女側が開けられるようになっている。扉は今は閉まったままだ。
僕が近づくと彼女はそっと微笑み、自動扉のてっぺんのセンサーが作動する遠赤外線のちょうど真下に左足をポンっと置いた。
その瞬間、自動扉がサーっと開いた。
それによって、扉越しの僕と彼女が生で対面する形となった。
彼女は黒っぽいワンピースにムートンコートを合わせた20代前半の巻き髪ロングであった。

「なんであんなところで1人いたの?」
僕は見慣れた知人のようなトーンでフレンドリーに彼女に尋ねた。
彼女は上目遣いで僕を見つめている。
身長は思っていたよりも小柄だ。

「アパートに帰るのが嫌だったんです」
彼女は僕を見つめたまま言った。


「それであんなところにいたの?」
「うん」

すると、彼女は僕に近づいてジャンパーの袖を軽く掴んだ。
というか指先で引っ張るような感じで。
「ねぇねぇ、部屋に来て。ここだと寒いよ…」

なんだかドキドキする。
彼女に言われるまま、僕は階段をのぼった。
彼女の後ろを付いていく。どこのものかは分からないが微かにフルーティーな香水の匂いがする。そして、さっき、僕が聞いた通りの足音が彼女からした。
やはり彼女だったんだ。



3階までのぼると部屋のドアが見えてきた。全部で3つしかない。どのドアにも表札に名前すら書いていない。そのあたりからこのアパートには若者が住んでいるのだろうと想像した。
彼女の部屋はそのうちの312号室だった。
小さな手で鍵を開け、扉を開くと電気はついたままだった。
「どうぞ、入って」
鼻に抜けるような声で彼女が優しく言う。


玄関から女の子の匂いがした。
ボディークリームにシャンプーに化粧品にさっき彼女から漂った香水の匂いに彼女自身の体臭が混じった匂いがする。



間取りは一般的なワンルームにベッド、ピンクの丸テーブル、床にはホットカーペットが敷いてある。
彼女は「どうぞ、座って」と笑顔で言った。そして、丸テーブル隔て、お互いが向かい合うような形となり、彼女はその丸テーブルにスマートフォンを置いた。彼女のスマートフォンにはライン通知のランプが点滅していた。
僕が切り出す。


「さっきの電話の相手は彼氏?」
そう言うと彼女は笑いながら否定した。


「あれはお父さんだよ」
僕は唖然とした。
若い女性のスマートフォンの向こうの男の声が親父だとは考えられなかったのだ。
どう考えても彼氏か男友だちだろうと。
しかし、彼女はあっさりそれを否定した。
そしてせきをきったように話し始めた。


「私、看護師をしているの。近くに大きな病院があるでしょう?私、そこの看護師なの。それで、今、世の中が大変なのもあるのか、みんな余裕がなくなってきているような気がして…現に私の病院のボーナスもカットされるみたいだし。なんか、ここで暮らす意味がないような気がしてきて。それで九州に住む両親に電話で相談したの。今日が始めてではなくて、ずっと前から。まあ、相談と言うよりは説得と言った方がいいかもしれないけど。もう一人で暮らすのはしんどいって。でもお父さん、甘えるなって。せっかく看護師になって雇われたんだからもう少し頑張れって言って、全然、私の辛い気持ちを分かってくれないの。こんな田舎の実家に帰ったって仕事はないぞ、って」

どうやら彼女は初対面の僕に何も包み隠さずに打ち明けているみたいだ。
そう直感した。そう信じた。
もしかすると、話し相手が欲しかったのだろう。
少なくとも彼女に嫌われてはいない。

彼女は続ける。
「でも、仕事中はまだ耐えられる。辛くなるのはアパートに帰ってから。特に休みの日はどのように過ごせばいいのか考えてずっと頭を悩ませているの。何もないこの部屋が嫌になってきて」


「だから、こんな寒いのにアパートに入らず外で電話してたの?」

「そう…」

「それに、お父さんとはカメラ機能を使って通話してたから屋外だということが分かってたと思うの。
これだけ私はアパートにいるのが辛いんだよって分かってもらうためにあえて外で電話したっていうのもある。そして、そんなときに、お兄さんの気配を背後に感じ取った。正直、怖かった。下手したら襲われるかもしれない。でも、万が一襲われたとしても、その光景がお父さんのスマートフォンにもリアルタイムに映ると思ったから、それはそれでいいかと自暴自棄にもなっていた。襲われた私を見て後悔するだろう、と。でも、お兄さんは襲って来なかった。そのまま去って行った。そしてスマートフォンの向こうのお父さんはこんな状況知りもせず、変わらず頑張れと言うだけ。私はどうしたらいいか分からなくて途方に暮れてしまった。そうしたら、またお兄さんが戻って来る自転車の音が聞こえてきた。私はさっきよりも怖くなった。やっぱり襲おうとしているのかもしれない、と。それで、急いでアパートに逃げたの」



「ホッとした?」
僕が言う。


「それがね、全く。だから、私はもう一度外に出たの。もちろん、周囲を警戒しながら。半分怖くて半分自暴自棄になっている状態で。そうしたらお兄さんはちょうどゴミ袋を持ってそれをゴミステーションに捨てていて、その時、手を合わせて目をつぶってたよね?」

「うん」

「それを見て、この人が襲うわけないって思った。それどころか、ゴミに対して敬意を表せることに私は感心したの。」


そして彼女は一瞬、沈黙し、また話し出した。

「実は昨日は夜勤でずっと患者さんのお世話をしていて、ナースコールが鳴りっぱなしでそのわりに人手は足らないしで。そして患者さんの中にはゴミを床に散乱させる人もいて。鼻水をかんだティッシュのゴミまで全部、私が処理しなきゃならなかった。
これらは全部、先輩看護師の指示なんだけど、その先輩看護師が休憩所でタバコをポイ捨てしてたのを目撃してショックを受けた。私の目標にしてた先輩看護師だったから余計に。それでボーっとしてたら患者さんに怒鳴られたりして、ずっと仮眠も取れないまま、ふらふらで退勤して、帰りにコンビニでおにぎりとかお菓子買って歩きながら食べたの。そして自暴自棄になっていたのもあったから、私も捨てちゃえって悪魔の声がささやいて、ポイッて誰かの自宅の庭に放り込んでしまった…」

―僕の自宅の庭に放り込まれていたのは彼女のだったのか??
そんなことがふと頭をよぎる―



彼女は続ける。
「すごく疲れていたから、アパートに戻ってすぐ、ベッドに転がった。眠い時に寝るのは気持ちいいものね。何も考えなくて済むし。そして目覚めた時には夜の8時をまわっていた。夜勤明けはいつもそう。でもこの日は少し違った。途端に、今朝、ゴミを投げ捨てたことに対する罪悪感が襲ってきて。その副作用みたいな感じで頭も痛くなってきたの。自業自得よね。でも、どこに捨てたかもあまり覚えてないし、たぶん敷地に入ってるから見つけたとしても取れないだろうし…罪の重さを自覚した。それに目覚めたばかりで全く眠くないし、でも、外は暗くて、また嫌な時間が始まると気が滅入ってしまったの。これから眠くなるまで何をして過ごそうかと。もういっそずっと目が覚めなければいいのにって。とにかく部屋にいても落ち着かないから、服を着て、とりあえず酸素の少ない部屋から脱出するように外に出てお父さんに電話をかけたの。外の空気で目一杯呼吸しながら。今度こそ説得しよう、と。分かってもらおう、と。そうしたらお兄さんが現れたってわけ」


「そうだったんだ」
僕はややオーバーに相槌を打ちながら彼女の話を聞いていたが、頭の中ではゴミの話が引っ掛かっていた。僕の自宅の庭に捨てたのは彼女だったのか?
その場で追求しようとも考えたが、こんな美しい女性のアパートに招いてもらってそれはないなと思った。大目に見ようかな、と。
そんなことを思っていると、彼女は突然話をやめた。僕が話をまともに聞いていないように見えたのかもしれない。沈黙が生じた。
とは言え、彼女は言いたいことを大方吐き出せただろう。初対面の僕に。

「ご飯食べた?」
彼女が言う。

「食べてない」
僕が答える。

「近くに行きつけのラーメン屋があるの」
と彼女が言う。


そして同棲カップルのように2人一緒に玄関を出た。
外は寒いからジャンパーで首元まで防護した。もちろん手袋も。彼女はマフラーを巻いている。
2人並んで夜道を歩く。
隣を歩く彼女はやはり小柄だ。とても可愛い。抱きしめたい。

「お兄さんは何の仕事をしているの?」
彼女が言う。

「アルバイト」

「えっ!何の?」

「飲食店」

「そうなんだ!」

深夜なのに派手な相槌を打ってくれる。
彼女は定職に就かない僕に嫌悪感を示しているようには見えなかった。たとえ、示していたとしても顔に出ないタイプだ。
このようなやりとりを交わしている内にラーメン屋の看板が見えてきた。
同時に小麦の強烈な香りが鼻腔をくすぐった。


「ここよ」
彼女がにっこり笑う。
店は明るそうだ。照明が外まで漏れ出している。

しかし、中に入るとそこに客は1人もいなかった。
いるのはラーメン屋の店員のみ。
せっせと皿洗いをしているその姿が誰かに似ていると思った。そして顔色が少し悪いようにも見える。たばこの吸いすぎだろうか。唇が紫に変色している。照明を明るくしているのはそうした事情もあるのだろうか。


「おっ!美穂ちゃん」
カタコトの日本語で店員が言った。
彼女の名前は美穂と言うのか。


2人、カウンター席に並んで座った。
様々な調味料が飛び散っているカウンターをよく見ると、ネギがへばりついていることに気づいた。ちゃんと拭いていないな。
「こってり背油ラーメンThe豚骨ください」
美穂が元気よくオーダーする。
常連のオーダーだから間違えはないだろう。
僕も同じものを注文した。



「お待たせしました」
やはりカタコトだ。
中国系の人かな。
でも、彼女や本人に尋ねるほどのことでもない。

ラーメンはとても見た目が美味しそうだった。
トッピングにもセンスが感じられる。特に、煮たまごは半熟で煮汁が染みてる。
写真に収めたくなったが、スマートフォンを自宅に置いたままだ。
2人してもくもくとラーメンをすすった。
熱々のこってり豚骨スープだ。濃厚で旨味がある。
メニュー名に背油が入っているだけあり、スープにはたっぷり背油が入っていた。塩辛かったり薄かったりすることはなく、極めて上手に作り込んであった。
そして店の前で漂った小麦の香りが今度は鼻腔のみならず舌の上でも踊っていた。
風味豊かで噛めば噛むほどに楽しくなる味だ。
美穂はれんげの上に一旦、麺を置いたりなどといった小細工などはせず、大胆に箸ですくってスープが絡んだ麺をそのまま口に運んでいた。
潔くていいなと思った。

「ごちそうさま」
会計は割り勘。
美穂はどこのブランドか知らないが、そんな無知な人間でも分かるようないい革財布をしていた。そこから、しわひとつないお札を取り出した。
一方、僕は昔、父に商店街の雑貨屋で買ってもらった黒のボロ財布の中からレジ前で店員と彼女に見られながら小銭をかき集めて支払った。まるで小学生が必死に貯めたお小遣いで初めて買い物をするみたいに。この時、小銭で財布がパンパンになるのだけは避けようと思った。


「おいしかったでしょう?」
美穂が言う。


「おいしいし、店員も気さくな人だね」

「あの人が店主よ」

「そうなんだ」

「そして私の元患者さんでもあるの」

「えっ、どういうこと?」


美穂は僕に近寄った上で少し小声になり、話し始めた。

「もう半年も前のことだけど、あの人、糖尿病で倒れて私が働く病院まで救急で運ばれてきたの。その時は「おふくろに会わせてください」ってストレッチャーで運ばれながら叫んでいたわ」

ここで僕はその時もカタコトだったんだと思いを馳せる。

「もう死ぬ覚悟をしてたんだと思う」

美穂はお父さんと電話をしていた時のようにうつむいた。


「医師がインスリンを投与して翌朝には回復したんだけど。それで昼時、彼の寝ているベッドまで食事を運んでお世話しながらいろいろ聞いてみたらどうもラーメン屋を経営していて前にも倒れたことがあるっていう話だったのね。でも今回はいつもと違う息切れなどの症状があったからもう最後かなって覚悟したらしい」

美穂が続ける。
「彼ね、ヘビースモーカーなの。もう、やめられないみたいね。入院中もこそこそ隠れて外の広場とかで吸ってたわ。あんなに吸ってたら味覚もおかしくなりそうだけど…
ラーメンだけは美味しいからびっくり。
彼、あの時はお世話になりましたって煮たまごサービスまでしてくれたりね、あの人、いい人なの。それからはリピーターよ」
美穂が笑う。


2人歩きながらそんな話をしていると、気がつけば美穂のアパートの目の前に着いていた。


「今日はとても楽しかったよ。ありがとう。ゴミ捨て場を探している内にこんな美女とラーメン食べられるなんて」
さみしい気持ちもあったが僕はそう述べた。

「やめてよ…恥ずかしい」
美穂が僕のジャンパーの裾を小さな二本指でつかみながら笑う。


「路地裏ナースだね」

「どういう意味?」

「いや…だから、路地裏に住んでいるナース」

「あっ、そういうことね」
美穂が笑う。頬が紅潮しているように見えた。チークの影響かもしれないが。

「最後にハグしよう」

僕がそう言うと、彼女は目の前で両手をいっぱいに広げ、僕に向かって上目遣いした。瞳がきらきらしている。
そして、小柄なのに胸が大きい。
服の上からでも感じられる。


僕は彼女を思いっきり抱きしめた。
柔らかくて切なくて愛おしい匂いとぬくもり。
ひとつになっている。
外は寒いはずなのに、ハグしたことで暖かくなった。

「私の名前、美穂じゃなくて美穂子だからね」
抱きしめたまま、彼女が突然そんなことを言った。

「ごめん。ラーメン屋の店主が美穂ちゃんって言ってたからてっきり美穂かと思って」
とっさに言い訳する。

「あの人は中国人だから大目に見てるのよ」

やっぱり中国人だったんだ。
美穂子って優しいんだな。
そう思いつつ、僕は今日、自宅の庭に投げ捨てられていたゴミの中身を思い出していた。
おにぎりにお菓子、ペットボトルに…
ダメだ、思い出せない。彼女の甘い匂いが思考を中断する。
まあ、いいか。


僕は言った。
「僕も美穂子のこと大目に見てるからお互い様ってことでいいんじゃない?」

「何を大目に見てるの?」
美穂子が頬を膨らます。


「かわいいな」
美穂子の頭をそっと撫でた。
美穂子がはにかむ。そして美穂子の甘い匂いが僕の鼻腔をくすぐった。
明け方の路地裏で。