0.02%の金持ちになるには

大半の庶民と何が違うのか

美女と同期する

スマホが重たくなっていくのを自覚したのは今日が初めてではない。
だが、アラビア数字の羅列された意味不明のファイルが勝手にダウンロードされていたり、充電器につなげてもなかなか充電されないなどといった症状は今日が初めてだ。
そして、そんな困惑した表情を李奈は画面をなめまわすような目で観察していた。


バカになったスマホをかばんの中に入れ、隼斗はカラオケに向かった。
部屋に入りKing Gnuの白日を歌う。
隼斗は去年流行った曲を翌年歌う傾向にある。
そのくせ町中華天津飯の出来具合の変化には誰より敏感だ。




李奈はそのカラオケの店員だ。
隼斗とは客対店員の関係に過ぎない。
唯一の接触と言えば、この前、隼斗がカラオケを出る際に李奈が思いきってアンケート記入の協力を求めることを口実に声をかけたことだ。そして、隼斗が部屋で飲んでいた水の入ったコップのふちに口づけをしたことぐらいだ。もちろん清掃の時だ。




李奈が隼斗に恋した理由はとても単純なものだった。
部屋の清掃をしている時、隣の部屋から甘くて切なくて愛おしい歌声が聞こえてきたのだ。しかも自分の応援しているアーティストの曲で、さらに、そのアーティストの曲の中でもあまり知られていないカップリング曲をさらりと歌いこなしていたのだ。
もう、どこを拭いているかも分からないほどに酔いしれ、部屋を出た時にさりげなくその美声が聞こえてくる部屋の中を確認すると若い男がいた。李奈と同世代ぐらいの。
そして、その若い男が初めて見たわけではないことにもすぐ気がついた。
彼はよくカラオケに訪れる常連客だったのだ。
そして李奈はすぐに恋に落ちた。



とは言っても、いきなり告白する勇気もない。
まして李奈と隼斗は店員と客の関係だ。
それに、あれだけ歌が上手くてカッコいい彼なら彼女の1人や2人いるだろう。
できるなら彼の方から声をかけてほしい。




だが、その願いは1ヶ月経っても1年経っても叶わなかった。
何度か偶然を装おって彼とすれ違ってみたけど、彼は目も合わさず、こちらが「ありがとうございます」と言っても軽く頷くように会釈するだけ。
もう、こうなったら私の方から動くしかない。
李奈は1人暮らしのアパートの寝室から彼のスマホをハッキングした。
これまでの接客で彼の電話番号やメールアドレスなどの情報は記録してある。
それをもとに李奈は自分のパソコンから彼のスマホを乗っ取った。




まず、見えたのは白い天井。
そこから右に視線をずらすと電気が付いているのが分かる。
彼の部屋だろう。
音声はとくにない。
かろうじて車の走行音やチクタクチクタクと時計の針の動く音がした。
李奈はここで一呼吸置いた。そして考えを巡らせた。ここは彼の実家だろうか、それとも1人暮らしの部屋だろうか。これらの情報だけでは全くもって見当がつかない。
ただ、李奈のパソコン画面は彼のスマホのカメラレンズから情報を得ているため、それ以上の情報が得られない。今のところ、おそらくスマホがうつ伏せになってベッドか棚の上に放置されている状況だろう。
李奈は手から変な汗を流しながらその行方を凝視していた。
もし、ここに女が現れたら正気でいられるだろうか。
そしてセックスでも始めようものなら。
私の前でそんなことしようものなら…





「いつもより3倍、4倍増しで拭いといて」
平日の昼下がり、店長から指示が飛ぶ。
李奈の通う大学は完全オンラインでその代わりに平日にもアルバイトに入れていた。
今日は来ないかな。
そんなわくわくが身体を軽くさせた。





アパートに戻り、米を1合硬めで炊く。
そして、フライパンに油をひろげ、卵を投入する。
炊き上がった米をそこに入れ、素早く炒める。
卵チャーハンの出来上がりだ。
塩コショウだけで味が決まるから楽だ。




食後、処方された薬を飲むみたいに、パソコン画面を開く。
彼女のナイトルーティーンだ。
昨日は真っ白な壁が映っていただけだったが、今日はどうだろう。
クリックして画面を開く。
すると、彼の顔面がいっぱいに映し出されていた。
毛穴やひげの剃り残しまで分かるぐらいに。
突然に映し出された大好きな彼に思わず胸が高鳴る。
彼は鼻息を荒くさせ、目も閉じたり開けたりしながらそれこそ正気ではないようだった。
そして時折、歯を食いしばるような表情をして画面にぶつかりそうになっていた。
彼女はすぐに察しがついた。
そして股を広げ、手を添えた。
彼が感じてくれるのがうれしい。





それから10分後、立ち上がったのだろう。彼の全裸が一瞬映り、画面は真っ白な天井を映し出した。
今のところ、女の声は聞こえない。そして女の姿もない。
私は彼を支配できている。
そんな満足感があった。




「アラビア数字なんてよくあることでしょう。…まさか、変なもの観てない?」
母からのLINEは的を射ていた。
何も返せない。
だが、年内にはどうにかしたい。
何せ、撮った覚えのない真っ黒で再生不可能な動画が入っていたりするのだから。





水の入ったコップのふちにキスして何回目だろう。
この水が喉の渇きをとり、美声のエネルギー源となっていると考えると、とても神聖なものに思えた。
そして、歌う時の真剣な表情とは違う彼の喘ぐ姿は何度も何度も私の中で上書きされていく。




「買い換えの時が来たんじゃない?」
母からそんなLINEが来て、返信できずにいる。
彼のスマホには数えきれないほどのアダルト動画のURLが保存されている。
今さら買い換えるなんてそんな億劫なことはできない。





「アラビア数字なんてよくあることでしょう。…まさか、変なもの観てない?」
既読「観てないし」
「買い換えの時が来たんじゃない?」



真っ白な画面に飽きた李奈は彼のLINE画面を開いていた。
私が乗っ取ったために彼は困っている。だけど、私はそれ以上に困っていたのよ。




キレイに剃られたアンダーヘアーもすらりと伸びる白い脚も全部彼のため。
私の二の腕に掴まって激しく腰を動かして。

路地裏ナース

師走の風が肌を通り抜け、身体全体が冷たくなっていくのを感じながら僕はひたすら自転車を漕いでいた。
ちょうど日付けが変わって1時間が経過しようとしている街はいつもとは違う夜更けの序章へと僕を案内しているように感じられる。
今、僕の自転車のかごにはゴミが入ってある。
このゴミは今日の昼過ぎ、自宅の庭に放り込まれていたものだ。
おにぎりのゴミや空のペットボトル、タバコの吸い殻にお菓子のゴミなどがコンビニの袋に入れられたまま放置されていた。
それを今、然るべき場所へ捨てようとしているわけだ。
だが、一向にゴミ箱が見つからない。
幼少期の記憶では公園にもコンビニにもゴミ箱はあったのに。
今、僕は自転車を走らせたままゴミ箱難民と化していた。
同時になぜ、何の落ち度もない僕が身勝手な不法投棄者のためにこんな理不尽な思いをしなければならないのか。
そんな苛立ちが外気をより冷たくさせた。
僕はジャンパーのポケットに入れてあった手袋をはめた。
自宅を出る際はすぐにゴミ箱を見つけて帰ってくるつもりで外に出たのに気がつけば公園をぐるぐるとサイクリングしているだけになっていた。
それで手が冷たくなって耐えられなくなり、手袋をはめたのだ。
どこかにゴミ箱がないかと右往左往する内に普段は行かないような場所にまでその範囲は及び、ふと、左を向くとすぐ隣に若い女性がしゃがみこんでいた。
彼女は小さな商店とアパートに挟まれた狭い道路上に佇んでいた。
僕が走っていた通りはバス道で比較的広く、彼女がいた場所は狭い路地裏だったから左を向かなければ気がつかなかっただろう。
僕は立ち止まり、反射的に彼女を観察していた。
ちょうど後ろ姿に彼女はなっていたが、地べたにスマートフォンを置き、うつむきながら誰かと会話しているようだった。微かに彼女が「うん」と相槌を打ち、男のしゃべる声がスマートフォンから聞こえてきたのだ。
彼女は地べたに置いたスマートフォンを見つめたまま僕の存在には見向きもせず、小さな声でスマートフォンの向こうの男とコミュニケーションを交わしているようだった。
僕が彼女を観察したのはやはり下心からだろう。
夜中の暗くて誰もいない路上に若い女性がしゃがみこんでいる。しかもシルエット的に僕の好みだ。
こんなシチュエーション、なかなかない。
それだけで僕は興奮して、あわよくばという思いがあった。怪しまれないように「ゴミ箱の場所分かりますか?」などとゴミを手に持ちながら尋ねてみようか。そんな戦略も頭をよぎった。しかし、彼女が男と電話しているようだったので、声をかけることは断念し、僕は彼女の美しい後ろ姿を目に焼きつけながら再び、自転車を走らせた。
相変わらず冷たい風がジャンパーをも通り抜けそうだ。ゴミ箱を探し回り疲れたせいか、のろのろ運転になってしまっている。
昔は当たり前にあったゴミ箱はまだ見つかっていない。
なぜ僕がこんな思いをしなきゃならないのか。
こんな可哀想な僕には、さっき目にした路地裏の女の子と戯れる権利ぐらいあるのではないだろうか。癒される権利が。
やはり彼女のことが気になる。もう一度だけ彼女を観察しに行こう。
そう思い立ち、僕はくるりと自転車を転回させ、再び、彼女がいる路地裏に戻った。
しかし、もう彼女はそこには存在しなかった。
警戒して逃げられたのかもしれない。
もたもたしていたからだ。ちくしょう。あーあ、疲れた。
よくよく考えれば自転車のかごに入ってあるゴミだって自分のじゃないのだからその辺に捨てちゃえばいいのだ。
なぜ他人が捨てたゴミをご丁寧に寒い中、ゴミ捨て場を探すところから始めなきゃならないのだ。
そんなことを考えながら、かごに入ってあるゴミをにらみつけていた。この場から手品みたいに消えてくれないかな。
そして彼女は逆にもういないのだ。僕の人生はがらくただけのものなのか。とは言え、彼女が消えたのは僕がもたもたしていたからだ。とっさに声をかければよかった。
犯罪者なら最初に彼女を見かけた瞬間にとっさに刃物を突きつけるのだろう。僕はそこまでしないにしろ、こうしてうろうろしているのだからその予備軍とあまり変わらない。情けなくなった。
でもやめられない。そして注意深く辺りを見回す。やばい、心臓がドキドキしている。どこにいるのだ?その数秒が丸1日ぐらいに感じられた。と、その時だった。彼女がいた目の前に3階建てのアパートがあり、そこからなんと、階段をのぼるヒール?のカタカタという音が聞こえてきたのだ。そのアパートは新築の真新しいアパートといった感じだ。
彼女かもしれない。
僕はアパートを見上げながら思った。だが、姿は見えない。そして、階段をのぼる音だけが聞こえた後、夜の静寂が身を包んだ。しーんと。そして寒い。孤独だ。
くそー、ムラムラさせるだけさせて逃げやがった女。
自転車を走らせながら沈黙の中で吐き捨てた。
逃げるぐらいなら夜中に1人で路上にしゃがみこむなよ。無防備すぎるだろう。
ゴミ箱が見つからないこともあって余計に腹が立った。
その後、付近のコンビニを何軒か見たが、やはりゴミ箱が見当たらない。
僕はとうとう諦めて、悪いと思いつつも、住宅街のゴミステーションにそっと置かせてもらった。
然るべき場所であることに変わりはない。僕はゴミの前でなんとなく手を合わせた。墓参りをするみたいに。こうしておけば天罰は下らないだろう。
そして、ここは彼女が入って行ったアパートの近くでもある。彼女もおそらくここにゴミを毎週出しているのだろう。そんなことを想像してみた。
僕は妙な征服感を味わった。
彼女の所で処理した、と。
こうしてゴミから解放された僕は自宅へ帰ろうと自転車を走らせた。清々しい気持ちが半分、残りは、なんだかもどかしい気持ちだけだった。
ついでにもう1回だけ彼女が入って行ったであろうアパートを見てみよう。もう1回だけだ。
僕は狭い路地を再び自転車でゆっくり進入した。
そして、あの彼女がいるであろうアパートを通り過ぎようとした時、そのアパートの小さなエントランスを見ると、なんと彼女が立っていた。僕はドキッとした。一瞬怖くなった。警察に通報されるかもしれない、と。
しかし、よく見ると僕を見て手招きしているではないか。
奇妙だ。さっき逃げたと思ったのは僕の勘違いだったのだろうか。それとも僕は変な夢でも見ているのだろうか。警戒しているはずの彼女がなぜ手招きを?
とにかく彼女は僕を見ながら手招きしていた。
僕は都合よくそれをある種の歓迎だと受け取り、さっそく自転車を停め、エントランスへと歩みを進めた。自動扉になっていて、彼女側が開けられるようになっている。扉は今は閉まったままだ。
僕が近づくと彼女はそっと微笑み、自動扉のてっぺんのセンサーが作動する遠赤外線のちょうど真下に左足をポンっと置いた。
その瞬間、自動扉がサーっと開いた。
それによって、扉越しの僕と彼女が生で対面する形となった。
彼女は黒っぽいワンピースにムートンコートを合わせた20代前半の巻き髪ロングであった。

「なんであんなところで1人いたの?」
僕は見慣れた知人のようなトーンでフレンドリーに彼女に尋ねた。
彼女は上目遣いで僕を見つめている。
身長は思っていたよりも小柄だ。

「アパートに帰るのが嫌だったんです」
彼女は僕を見つめたまま言った。


「それであんなところにいたの?」
「うん」

すると、彼女は僕に近づいてジャンパーの袖を軽く掴んだ。
というか指先で引っ張るような感じで。
「ねぇねぇ、部屋に来て。ここだと寒いよ…」

なんだかドキドキする。
彼女に言われるまま、僕は階段をのぼった。
彼女の後ろを付いていく。どこのものかは分からないが微かにフルーティーな香水の匂いがする。そして、さっき、僕が聞いた通りの足音が彼女からした。
やはり彼女だったんだ。



3階までのぼると部屋のドアが見えてきた。全部で3つしかない。どのドアにも表札に名前すら書いていない。そのあたりからこのアパートには若者が住んでいるのだろうと想像した。
彼女の部屋はそのうちの312号室だった。
小さな手で鍵を開け、扉を開くと電気はついたままだった。
「どうぞ、入って」
鼻に抜けるような声で彼女が優しく言う。


玄関から女の子の匂いがした。
ボディークリームにシャンプーに化粧品にさっき彼女から漂った香水の匂いに彼女自身の体臭が混じった匂いがする。



間取りは一般的なワンルームにベッド、ピンクの丸テーブル、床にはホットカーペットが敷いてある。
彼女は「どうぞ、座って」と笑顔で言った。そして、丸テーブル隔て、お互いが向かい合うような形となり、彼女はその丸テーブルにスマートフォンを置いた。彼女のスマートフォンにはライン通知のランプが点滅していた。
僕が切り出す。


「さっきの電話の相手は彼氏?」
そう言うと彼女は笑いながら否定した。


「あれはお父さんだよ」
僕は唖然とした。
若い女性のスマートフォンの向こうの男の声が親父だとは考えられなかったのだ。
どう考えても彼氏か男友だちだろうと。
しかし、彼女はあっさりそれを否定した。
そしてせきをきったように話し始めた。


「私、看護師をしているの。近くに大きな病院があるでしょう?私、そこの看護師なの。それで、今、世の中が大変なのもあるのか、みんな余裕がなくなってきているような気がして…現に私の病院のボーナスもカットされるみたいだし。なんか、ここで暮らす意味がないような気がしてきて。それで九州に住む両親に電話で相談したの。今日が始めてではなくて、ずっと前から。まあ、相談と言うよりは説得と言った方がいいかもしれないけど。もう一人で暮らすのはしんどいって。でもお父さん、甘えるなって。せっかく看護師になって雇われたんだからもう少し頑張れって言って、全然、私の辛い気持ちを分かってくれないの。こんな田舎の実家に帰ったって仕事はないぞ、って」

どうやら彼女は初対面の僕に何も包み隠さずに打ち明けているみたいだ。
そう直感した。そう信じた。
もしかすると、話し相手が欲しかったのだろう。
少なくとも彼女に嫌われてはいない。

彼女は続ける。
「でも、仕事中はまだ耐えられる。辛くなるのはアパートに帰ってから。特に休みの日はどのように過ごせばいいのか考えてずっと頭を悩ませているの。何もないこの部屋が嫌になってきて」


「だから、こんな寒いのにアパートに入らず外で電話してたの?」

「そう…」

「それに、お父さんとはカメラ機能を使って通話してたから屋外だということが分かってたと思うの。
これだけ私はアパートにいるのが辛いんだよって分かってもらうためにあえて外で電話したっていうのもある。そして、そんなときに、お兄さんの気配を背後に感じ取った。正直、怖かった。下手したら襲われるかもしれない。でも、万が一襲われたとしても、その光景がお父さんのスマートフォンにもリアルタイムに映ると思ったから、それはそれでいいかと自暴自棄にもなっていた。襲われた私を見て後悔するだろう、と。でも、お兄さんは襲って来なかった。そのまま去って行った。そしてスマートフォンの向こうのお父さんはこんな状況知りもせず、変わらず頑張れと言うだけ。私はどうしたらいいか分からなくて途方に暮れてしまった。そうしたら、またお兄さんが戻って来る自転車の音が聞こえてきた。私はさっきよりも怖くなった。やっぱり襲おうとしているのかもしれない、と。それで、急いでアパートに逃げたの」



「ホッとした?」
僕が言う。


「それがね、全く。だから、私はもう一度外に出たの。もちろん、周囲を警戒しながら。半分怖くて半分自暴自棄になっている状態で。そうしたらお兄さんはちょうどゴミ袋を持ってそれをゴミステーションに捨てていて、その時、手を合わせて目をつぶってたよね?」

「うん」

「それを見て、この人が襲うわけないって思った。それどころか、ゴミに対して敬意を表せることに私は感心したの。」


そして彼女は一瞬、沈黙し、また話し出した。

「実は昨日は夜勤でずっと患者さんのお世話をしていて、ナースコールが鳴りっぱなしでそのわりに人手は足らないしで。そして患者さんの中にはゴミを床に散乱させる人もいて。鼻水をかんだティッシュのゴミまで全部、私が処理しなきゃならなかった。
これらは全部、先輩看護師の指示なんだけど、その先輩看護師が休憩所でタバコをポイ捨てしてたのを目撃してショックを受けた。私の目標にしてた先輩看護師だったから余計に。それでボーっとしてたら患者さんに怒鳴られたりして、ずっと仮眠も取れないまま、ふらふらで退勤して、帰りにコンビニでおにぎりとかお菓子買って歩きながら食べたの。そして自暴自棄になっていたのもあったから、私も捨てちゃえって悪魔の声がささやいて、ポイッて誰かの自宅の庭に放り込んでしまった…」

―僕の自宅の庭に放り込まれていたのは彼女のだったのか??
そんなことがふと頭をよぎる―



彼女は続ける。
「すごく疲れていたから、アパートに戻ってすぐ、ベッドに転がった。眠い時に寝るのは気持ちいいものね。何も考えなくて済むし。そして目覚めた時には夜の8時をまわっていた。夜勤明けはいつもそう。でもこの日は少し違った。途端に、今朝、ゴミを投げ捨てたことに対する罪悪感が襲ってきて。その副作用みたいな感じで頭も痛くなってきたの。自業自得よね。でも、どこに捨てたかもあまり覚えてないし、たぶん敷地に入ってるから見つけたとしても取れないだろうし…罪の重さを自覚した。それに目覚めたばかりで全く眠くないし、でも、外は暗くて、また嫌な時間が始まると気が滅入ってしまったの。これから眠くなるまで何をして過ごそうかと。もういっそずっと目が覚めなければいいのにって。とにかく部屋にいても落ち着かないから、服を着て、とりあえず酸素の少ない部屋から脱出するように外に出てお父さんに電話をかけたの。外の空気で目一杯呼吸しながら。今度こそ説得しよう、と。分かってもらおう、と。そうしたらお兄さんが現れたってわけ」


「そうだったんだ」
僕はややオーバーに相槌を打ちながら彼女の話を聞いていたが、頭の中ではゴミの話が引っ掛かっていた。僕の自宅の庭に捨てたのは彼女だったのか?
その場で追求しようとも考えたが、こんな美しい女性のアパートに招いてもらってそれはないなと思った。大目に見ようかな、と。
そんなことを思っていると、彼女は突然話をやめた。僕が話をまともに聞いていないように見えたのかもしれない。沈黙が生じた。
とは言え、彼女は言いたいことを大方吐き出せただろう。初対面の僕に。

「ご飯食べた?」
彼女が言う。

「食べてない」
僕が答える。

「近くに行きつけのラーメン屋があるの」
と彼女が言う。


そして同棲カップルのように2人一緒に玄関を出た。
外は寒いからジャンパーで首元まで防護した。もちろん手袋も。彼女はマフラーを巻いている。
2人並んで夜道を歩く。
隣を歩く彼女はやはり小柄だ。とても可愛い。抱きしめたい。

「お兄さんは何の仕事をしているの?」
彼女が言う。

「アルバイト」

「えっ!何の?」

「飲食店」

「そうなんだ!」

深夜なのに派手な相槌を打ってくれる。
彼女は定職に就かない僕に嫌悪感を示しているようには見えなかった。たとえ、示していたとしても顔に出ないタイプだ。
このようなやりとりを交わしている内にラーメン屋の看板が見えてきた。
同時に小麦の強烈な香りが鼻腔をくすぐった。


「ここよ」
彼女がにっこり笑う。
店は明るそうだ。照明が外まで漏れ出している。

しかし、中に入るとそこに客は1人もいなかった。
いるのはラーメン屋の店員のみ。
せっせと皿洗いをしているその姿が誰かに似ていると思った。そして顔色が少し悪いようにも見える。たばこの吸いすぎだろうか。唇が紫に変色している。照明を明るくしているのはそうした事情もあるのだろうか。


「おっ!美穂ちゃん」
カタコトの日本語で店員が言った。
彼女の名前は美穂と言うのか。


2人、カウンター席に並んで座った。
様々な調味料が飛び散っているカウンターをよく見ると、ネギがへばりついていることに気づいた。ちゃんと拭いていないな。
「こってり背油ラーメンThe豚骨ください」
美穂が元気よくオーダーする。
常連のオーダーだから間違えはないだろう。
僕も同じものを注文した。



「お待たせしました」
やはりカタコトだ。
中国系の人かな。
でも、彼女や本人に尋ねるほどのことでもない。

ラーメンはとても見た目が美味しそうだった。
トッピングにもセンスが感じられる。特に、煮たまごは半熟で煮汁が染みてる。
写真に収めたくなったが、スマートフォンを自宅に置いたままだ。
2人してもくもくとラーメンをすすった。
熱々のこってり豚骨スープだ。濃厚で旨味がある。
メニュー名に背油が入っているだけあり、スープにはたっぷり背油が入っていた。塩辛かったり薄かったりすることはなく、極めて上手に作り込んであった。
そして店の前で漂った小麦の香りが今度は鼻腔のみならず舌の上でも踊っていた。
風味豊かで噛めば噛むほどに楽しくなる味だ。
美穂はれんげの上に一旦、麺を置いたりなどといった小細工などはせず、大胆に箸ですくってスープが絡んだ麺をそのまま口に運んでいた。
潔くていいなと思った。

「ごちそうさま」
会計は割り勘。
美穂はどこのブランドか知らないが、そんな無知な人間でも分かるようないい革財布をしていた。そこから、しわひとつないお札を取り出した。
一方、僕は昔、父に商店街の雑貨屋で買ってもらった黒のボロ財布の中からレジ前で店員と彼女に見られながら小銭をかき集めて支払った。まるで小学生が必死に貯めたお小遣いで初めて買い物をするみたいに。この時、小銭で財布がパンパンになるのだけは避けようと思った。


「おいしかったでしょう?」
美穂が言う。


「おいしいし、店員も気さくな人だね」

「あの人が店主よ」

「そうなんだ」

「そして私の元患者さんでもあるの」

「えっ、どういうこと?」


美穂は僕に近寄った上で少し小声になり、話し始めた。

「もう半年も前のことだけど、あの人、糖尿病で倒れて私が働く病院まで救急で運ばれてきたの。その時は「おふくろに会わせてください」ってストレッチャーで運ばれながら叫んでいたわ」

ここで僕はその時もカタコトだったんだと思いを馳せる。

「もう死ぬ覚悟をしてたんだと思う」

美穂はお父さんと電話をしていた時のようにうつむいた。


「医師がインスリンを投与して翌朝には回復したんだけど。それで昼時、彼の寝ているベッドまで食事を運んでお世話しながらいろいろ聞いてみたらどうもラーメン屋を経営していて前にも倒れたことがあるっていう話だったのね。でも今回はいつもと違う息切れなどの症状があったからもう最後かなって覚悟したらしい」

美穂が続ける。
「彼ね、ヘビースモーカーなの。もう、やめられないみたいね。入院中もこそこそ隠れて外の広場とかで吸ってたわ。あんなに吸ってたら味覚もおかしくなりそうだけど…
ラーメンだけは美味しいからびっくり。
彼、あの時はお世話になりましたって煮たまごサービスまでしてくれたりね、あの人、いい人なの。それからはリピーターよ」
美穂が笑う。


2人歩きながらそんな話をしていると、気がつけば美穂のアパートの目の前に着いていた。


「今日はとても楽しかったよ。ありがとう。ゴミ捨て場を探している内にこんな美女とラーメン食べられるなんて」
さみしい気持ちもあったが僕はそう述べた。

「やめてよ…恥ずかしい」
美穂が僕のジャンパーの裾を小さな二本指でつかみながら笑う。


「路地裏ナースだね」

「どういう意味?」

「いや…だから、路地裏に住んでいるナース」

「あっ、そういうことね」
美穂が笑う。頬が紅潮しているように見えた。チークの影響かもしれないが。

「最後にハグしよう」

僕がそう言うと、彼女は目の前で両手をいっぱいに広げ、僕に向かって上目遣いした。瞳がきらきらしている。
そして、小柄なのに胸が大きい。
服の上からでも感じられる。


僕は彼女を思いっきり抱きしめた。
柔らかくて切なくて愛おしい匂いとぬくもり。
ひとつになっている。
外は寒いはずなのに、ハグしたことで暖かくなった。

「私の名前、美穂じゃなくて美穂子だからね」
抱きしめたまま、彼女が突然そんなことを言った。

「ごめん。ラーメン屋の店主が美穂ちゃんって言ってたからてっきり美穂かと思って」
とっさに言い訳する。

「あの人は中国人だから大目に見てるのよ」

やっぱり中国人だったんだ。
美穂子って優しいんだな。
そう思いつつ、僕は今日、自宅の庭に投げ捨てられていたゴミの中身を思い出していた。
おにぎりにお菓子、ペットボトルに…
ダメだ、思い出せない。彼女の甘い匂いが思考を中断する。
まあ、いいか。


僕は言った。
「僕も美穂子のこと大目に見てるからお互い様ってことでいいんじゃない?」

「何を大目に見てるの?」
美穂子が頬を膨らます。


「かわいいな」
美穂子の頭をそっと撫でた。
美穂子がはにかむ。そして美穂子の甘い匂いが僕の鼻腔をくすぐった。
明け方の路地裏で。

告白8ビート

彼女とは半年ぶりに再開することになった。


待ち合わせ場所に現れたのは以前と変わらない彼女、ゆずという女の子だった。
小柄で丸顔で童顔だ。
「会えると思ってなかった」
彼女は言った。
「ずっと会いたいと思ってたんだ」
僕が言う。
そして、僕と彼女はパスタを高層階の夜景のきれいなレストランで食べた後、エレベーターに向かい、1階まで降り、外に出た。
人通りは平日にしては多く、他人の視線が少し気になった。
僕らはラブホテルに入り、部屋に入るなり、持参してきたギターで弾き語りをした。
黒いソファに座り、僕がストロークをはじめると、彼女はソファのひじ掛け部分に座った。そして、僕の方に身体を寄せてきた。まるで2人でデュエットしているようだった。
そして、こんなにも距離の近い観客は初めてだと思った。
僕が歌い終わると、ベッドに行き、服を着たまま抱き合った。そして見つめ合い、服を脱がせ、ブラジャーをとり、パンティーも脱がせた。
僕は彼女の女性器を優しく撫でて、指を挿れた。
すると、じわじわと濡れてきた。
それからはずっと抱き合ったまま射精まで至った。



「付き合おう」
僕は常談っぽく言った。

彼女は少し迷っているように見えたが、拒絶しているようでもなさそうだった。

「そんな風に言われると意識しちゃう」
少しの沈黙の後、彼女は言った。

意識するとはつまり好きになりかけているということなのだろうか。
彼女のその一言が妙に僕の心をかき乱した。

「大好き」
僕は彼女の目を見て言った。

「今日から意識しちゃう。そういう風に言われたら。言葉にしなきゃ分からないからね」
彼女はまた同じようなことを言った。


僕はイエスかノーの二択を想定していた。しかし、彼女はイエスとも、ノーとも判断しかねるような回答をした。だから、僕は混乱した。それはどういうことなのだろうか、と。
「意識する」とは言い換えれば「好き」だともとれるし、「言葉にしなきゃ分からないからね」とは、つまり、彼女は前から僕のことが気になっていて、僕の気持ちも知りたくて、今日やっと知れたということなのだろうか。
でも、それならばなぜ、はっきり「私も好き」だとは言わないのだろうか。まだ、そこまでの領域には達していないということなのだろうか。それとも僕が断られた時の予防線を張るために常談っぽく言ったからなのだろうか。

暖かくて獣の匂いが漂うベッドのシーツには陰毛が1本と小さなシミがあった。
僕はそれをただ、ぼんやりと眺めて余韻に浸っていた。


「この先、付き合うことになるかな?」
僕は彼女の顔色を伺うように言った。


「うん」
彼女はそう答えた。


もしかすると、彼女には今、付き合っている恋人がいて、だから、建前上はイエスと言えないのかもしれない。でも、今の恋人を振った後であれば、すぐに僕に乗り換えられる。
だから、そのような言い方をしたのだろうか。


それとも、彼女に恋人などいないが、僕から彼女への本気度が伝わらず、まだ、数回しか会っていないことも相まって、もっと僕の内面を知りたい、熱意を確かめたいということなのだろうか。
僕のことを本気で考えているからこそ、同じように「本気」を見たいのだろうか。



僕はもう一度彼女を抱きしめた。
髪がつやつやで手入れが行き届いている。
彼女は空気の澄んだ草原のゆりかごで昼寝をするように僕の肩に身を寄せた。


十分な余韻に浸った後、服を着て、ハンガーにかけてあった僕の黒のジャケットを彼女が取り出すなり「このジャケット暖かそうでいいね」と微笑んだ。


僕はジャケットの防寒云々より、彼女の心境の方が気になっていた。

そして、ジャケットを着て、玄関のドアまで行き、開けようとすると、彼女はまた念を押すように「今日から意識しちゃうからね」と言った。
これを僕には、「私も本当は好きと言いたいよ」という風に聞こえた。だが、今は彼女自身、何らかの事情があるのかもしれない。
そして僕の気持ちが今日分かったから、それをしっかり受け取ったよという風にも聞こえた。
いずれにせよ、「意識するからね」という一言がずっと頭から離れなかった。


それから僕らは二人、手をつなぎ、ラブホテルを出て、別れた。
寒さは気にならなかった。むしろお祭りのような暖かささえ感じられた。

ところで、今日の昼過ぎ、つまり、彼女と会う前にギターの弦が1本切れていたからヤマハの楽器屋さんに向かった。
パッケージングされた複数の弦が店頭に並んでおり、どれにすればいいか迷った僕は店員さんに尋ねた。マスクをしていて、パソコンの画面をずっと見ていたから話しかけてほしくなさそうに見えたが、いざ話しかけると、その男の店頭さんは丁寧に説明してくれた。
「こちらの弦は少し暖かくてしっとりとした音が出ます。そしてこちらの弦は、少しハードな感じがします」
そのように説明を受けていると、その店員はぶら下がったままの青色にパッケージングされた弦を見つめ、手で触った。ずっと見つめ、時間が止まっているかのようだった。
どうやら、これをおすすめしたいようだ。だが、僕の視線の先にあったのはそれとは違う種類の弦だった。
でも、店員さんが熱心にすすめてくる内にそちらに目がいくようになった。
結果的に、その弦を購入した。
もし、その店員さんが、すすめてこなければ購入していなかっただろう。
それに弦に対するこだわりもさほどなかった。強いて言えば、僕のギターを美しい音色に変えてくれるような弦を求めていた。
そして、店員さんかプッシュするのだがらいいのだろうと思った。



こうして自宅に戻り、弦を取り付けた訳だが、試しに弾いてみるといい音がした。そして彼女のために弾き語る曲を決めて、その歌詞とコードを紙に書いた。
実際に弾き語ってみると、前からカラオケでよく歌っていたこともあり、すんなりと自分の身体に落とし込むことができた。
その時、気分がよくなって、その状態のまま、彼女との待ち合わせの時間が来たのだ。
そして、食事をして、ラブホテルで弾き語ると、彼女はとても喜んでいた。
しかし、僕はこの時、緊張からコードを押さえて歌詞を書いた紙を見るのに必死で彼女のことを気に留めていなかった。
そして弾き終り、彼女の方を見ると、「この曲知ってる」と言って、その歌詞が書かれた紙を手に取り、興味深そうに眺めていた。
それがとても嬉しかった。

中目黒サイレントセックス

高畑こうきに罪悪感など一切なかった。
男女平等、女性の社会進出を推進などと言うけれど、蓋を開けてみれば現実はその真逆をいっているような気さえする。
知人の和民かほは大手の企業でそこそこの地位に就いているが、独身だ。
実家暮らしで彼氏もいない。
そんなかほに親は早く結婚しろとは言わないが、それと変わらない圧力を加えられているようだ。
まさに女性蔑視ではないか。誰が決めた?女性は彼氏を作って結婚しなければならないのか?
孫の顔を見たいという願望そのものを否定するわけではないが、彼女(かほのこと)の「ひとりでいたい」という気持ちも否定してはならない。
一方、高畑こうき(以下、僕)は中目黒のデザイナーズマンションの一室で「かなで」という24歳のOLの女性といた。
僕自身、既婚であるし、そもそもそのような状況で妻以外の女性とマンションの一室にいるということ自体がおかしい。それは重々分かっていた。
かなでは身長が150㎝ぐらいで肌が白く、小柄だ。
胸はさほど大きくないが、彼女の体型に自然な形でフィットしている。
お尻の形がきれいでずっと触っていたくなる。
かなでとは英会話スクールで出会った。
同じクラスになって少人数の上にペアワークもあるから自然と関わり合えた。
彼女はおしゃれにも気を遣っていて、礼儀正しかった。
そんな彼女とラインを交換して1年ぐらいは何事もなく時だけが過ぎていた。
まるで僕の青春時代のように。
しかし、ある夜、彼女から突然、ラインが来た。
そんなにやり取りもしていなかったのに。


「お疲れ様です。
高畑さん、もしよかったら中目黒のカフェに行きませんか?」

僕は了承した。
カフェに行くぐらいならいいだろうと。
しかし、これが誤りだったことに気づいたのは、カフェで彼女と落ち合って、それぞれケーキと紅茶を頼み、英会話の話などをして、その後に、いい流れになってこれはチャンスと言わんばかりにラブホテルに駆け込んで、部屋の扉を開けた瞬間、キスしてスカートをずらしてそのまま挿入してしまってからだった。

「高畑さん、すごい触るね」
行為を終えた後、ベットの上でお互い裸になって僕は彼女の太ももやお尻を撫でていた。

「お尻の形、すごいきれいだね」
僕がそう言うと、彼女は、これでもたるんでると謙遜した。
どうやら胸が小さいことも悩みらしい。

「そんな風に言ってくれるの高畑さんが初めて」
僕が彼女のお尻や胸、身体のラインがきれいだと褒めていると、彼女はそう言って喜んでいた。



僕は英会話スクールで出会った時から彼女とセックスしたいと思っていた。
普段は街中で女性に目がいっても「妻より格下だ」と勝手に評価して見下していた。でも、それは浮気防止のためでもあり、今、考えればいいことだった。別に口に出して言っているわけではないのだから。
でも、彼女は違った。何度見ても、僕の妻より格下だと思えなかったのだ。むしろ、格上だった。どう、言い聞かせようとしても難しかった。
そして、洋服を着ていても肌のしっとりとした感じや美しいボディーラインが伝わってきて、一度でいいから彼女とセックスしたいと思わずにはいられなかったのだ。
しかし、実際に裸を見て、挿入すれば意外と大したことないかもしれない。
そう期待もしていた。(これは妻のために)
だが、その期待も見事に外れた。
あの中目黒のカフェの一件以来、もう一度、彼女とラブホテルでセックスをしたのだ。
その時はベットの上でゆっくりと時間をかけて正常位で行った。
そして、イキそうになった時に彼女を抱きしめたのだが、その瞬間、これまでにないほどのフィット感を感じたのだ。居心地のよさと表現すればいいだろうか。
仮に、人間、ひとりひとりが壮大な海原の景色が広がる複雑なパズルのピースだとすれば、僕と彼女はその景色を完成させる最後の2ピースのようであった。
そこには、パチッ、パチッ、と最後の2ピースをはめてパズルを完成させるような気持ちよさがあった。これで、僕たちは完成する、と。
この、抱きしめた時の感覚がたまらなくて、彼女とは週に1回程度、急遽、借りた中目黒のデザイナーズマンションの一室で行為に及ぶようになった。
僕からすればこれは浮気であり多少の罪悪感が伴う。
でも、それを彼女は知らないだろうし、妻もまた気づいていないだろう。
僕はそんなにも魅惑的な彼女を憎いと思っているし、妻がそれを知ればさらに憎いと思うだろう。

誘拐BMW

ゴォーという低音が感じられる。それは雑音でも騒音でも雷でもない。実に穏やかな音だ。誰かとしゃべっていると気にも留めないかもしれない。
ボディー剛性とかシャーシという言葉を借りるなら、まさにこの空間はそのすべての完成度が高い。
僕は今、BMW5シリーズの運転席でハンドルを握っている。
真夜中の都会から得られるのは人工的な光や音であって、そこにオーガニックさは感じられない。
「バーニラ♪、バニラ♪、バーニラ♪、フゥ♪フゥ♪」
光と音がトラックに集約されている。
一度聞いたら絶対に忘れないフレーズ。しかし、無意識下では何度も耳に入っていたのだろう。
スクランブル交差点で信号にひっかかった。
人通りはまばらだ。
ドライブレコーダーが搭載されたフロントガラス。
録画中なのは言うまでもない。
そこを1人の男が通り過ぎる。黒のジャケットに黒のズボン、黒のマスクをし、黒の帽子を被っている。中肉中背だ。
そして男の歩く前方には20代の女性がスマートフォンを見ながら歩いていた。
そして次の瞬間、その男はシマウマを仕留めるチーターのようにその女性に背後から近づき果物ナイフを女性の首もとに突き出した。そして男の両腕は女性の首もとに巻きつかれていた。
周囲には人がいない。
これを間近で見ているのはおそらく停車中のBMW5シリーズの僕らだけだろう。
「ちょっと出ていく」
僕がそう声を絞り出すと助手席に座る彼女は「危ないからやめて」とヒステリックに叫んだ。
彼女は僕の身の安全のためにそう言っているのだろう。しかし、今、見知らぬ男に果物ナイフで脅されている女性の身の安全はこれでは確保できない。
僕は彼女の警告を無視してBMWの頑丈なドアを開け、小走りにその男の方へと向かった。
しかし、その時にはもう、男は路肩に停めてあったワンボックスカーの中へ、その若い女性を引きずりこむ最中だった。
どうやらもう1人仲間が車内にいるようだ。
そして僕がそのワンボックスカーの前まで来た時にはすでにドアは閉まり、急加速していくだけだった。
僕はすぐにBMWに戻り、すでに青になっている信号をフル加速で突破した。
「事件ですか?事故ですか?」
「女の人が男に連れ去られました」
「場所はどこですか?」
「場所ですか…?」
「ゆうか、ちょっとナビで現在地見てみて」
「えっ、と、○○区○○町…」
「○○区○○町ですね?」
「はい」
「車のナンバー分かりますか?」
「○○ー○○…あとは見えないです」
ワンボックスカーは法定速度を優に越えるスピードで都会を駆け抜けていった。
僕もそれを追うが、信号にひっかかるとやがて姿を見失った。
「無理な追跡は控えてくださいね」
警察にそう言われ、やりとりは終了した。
「最近、流行ってるらしいよ」
「何が?」
「誘拐」
「都会のど真ん中で堂々と若い女性を誘拐するのが横行しているんだって。バックには中国系のマフィアがいて、たいていは素人の男2人を高額バイトと称して雇い、ワンボックスカーを貸し出して誘拐させているんだって。手口としてはまず男1人が背後から近づき果物ナイフを女性に突き出して、「静かにしていれば大丈夫だ」と脅し、そのままワンボックスカーに押し込むというものだ。そして車内では手首を縛り、目隠しをし、口をテープでふさぎ、所持品は全てとられる。たいていはコンテナ船で海外まで運ばれて人身売買や臓器売買されるそうだ。
なかには、車内で男2人にきっちり中だしされて、その後、意識を失った女性を山奥に放置するというパターンもあるらしい。でも、マフィアはあくまで女性を人身売買や臓器売買させて金にすることが目的だからそんなことをすれば末路はもう悲惨なものだ」
後部座席に座るサトシは淡々と語った。
「よく知ってるな。そんなこと。まるで経験者みたいだな」
僕が感心したように言う。
サトシは苦笑いする。
ウィキペディア情報だよ。真偽不明だよ」
「でも、さっきの見てたらまさにその通りの光景って感じがしたけどな」
「まあねぇ、ちょっとヤバかったな」
その時、警察から電話がかかってきた。
「○○さんですか?本部の○○という者です。
たった今、○○区全域に緊急配備を行いました。
ただ、事案が事案なだけにサイレンは鳴らさず、捜査車両の覆面だけ走らせています。また、各々、刑事から連絡が入ると思いますが、その時はご協力お願いいたします」
野太い声だった。やくざと変わらない威圧感が電話口から感じられた。
その後、僕らは街をくまなく流したが一向にあのワンボックスカーは姿を現さなかった。
見たのは路肩に停めてある捜査車両感丸出しの覆面車両に怯える一般車両の不自然なほどに遅い走りの滑稽な光景だけだった。
「あの女性無事だといいけど」
サトシの自宅前までBMWを横付けした際にサトシは言った。
「警察も動いているから大丈夫だよ」
僕はそう言って、サトシが自宅の扉を閉めるのを見届けてからBMWを静かに発進させた。
助手席に座る彼女とは付き合って1年になる。
あのワンボックスカーで連れ去られた女性と同じぐらいの年齢だと考えると、いつ彼女が襲われてもおかしくないと思った。
僕が運転するBMWは24時間入出庫可能な高層ビルの地下駐車場に入った。
フェラーリとマカン、あとは国産車がほとんど。
隅の方のあまり車が停めていないあたりにBMWを駐車する。
エンジンを切り、車のガラスを全てスモークにした。
そして彼女の胸を鷲掴みにし、助手席のシートを1番後ろまで引き、彼女のスカートをめくり、股を広げ、下着を横にずらすとそのあらわになった肉の部分に僕の固くなった肉の棒を当てた。ぬるぬると滑る感触があった。
そして挿入し、ひたすら腰をふると1分もしない内に射精した。果てた肉の棒を引き抜くと同時に白い液体が彼女の肉の部分からトロトロと流れ出て、それがBMWの本革シートまで濡らした。
彼女は脱力し、白い太ももと二の腕だけが飾りもののようにたたずんでいた。
そして駐車場の白いライトに反射して彼女の女性器がテカって艶々していた。

デイトナおじさん

昨夜は全く眠れずに休日がやってきた。
ここ最近、自粛のせいか生活のリズムが乱れている。
ロレックスのサイトを眺めていると新作のモデルがいくつか掲載されていた。
全く眠れなかった昨夜からの「今日」という休日は変にテンションが上がる。
普段、しないようなことを衝動的にしてしまいそうだ。しかも、今日はなぜか自分の欲しいロレックスのモデルが入荷しているかもしれないという第六感が働いている。この第六感は馬鹿にはできない。
正規販売店の前には開店前にも関わらず、たくさんの人が並んでいた。
アップルの新作発売の時のニュース映像かと思うぐらいに。







「青サブが1本入荷したらしいです」
前に並んでいる男性が携帯電話で誰かと話している。
休日なのにスーツをビシッと決め、腕にはステンレスの時計を巻いている。どこのものかは分からない。恐らくロレックスではないだろう。
男性はすぐに話を終え、携帯電話をかばんに閉まった。
そんな男性に年配の白髪の男性が話しかける。
腕には明らかにデイトナがつけられている。
「青サブ狙いなんですか?」
落ち着いた語り口は同時にお金と時間のゆとりを感じさせた。
「サブなら何でもいいんです。デイトでもノンデイトでも」
白髪の男性が頬笑む。
「そうですか。私も実はサブマリーナを購入しようと思っているんです」




どうも、スポロレのレアモデルが入荷したとの真偽不明の情報がSNS上で拡散されているらしい。
道理で人が多いわけだ。



開店5分前、スーツの店員が店から出てきた。
「メンテナンスの方はいらっしゃいますか?」
誰も手を挙げない。
ふと後ろを振り返ると、そこには10代から80代ぐらいまでの男女がたくさん並んでいた。
合計で20~30人ぐらいだろうか。


店員は手を上げない私たちの方を見定めるようにしながら話を続けた。
「本日、スポーツモデルの入荷はごさいません」


そう言うと、並んでいたオタク系男子1人が「なんだよ、またか、」といった感じで列から離脱した。


そして店が開き、店員の誘導のもと、一定の感覚を空けながら、アルコール消毒をし、ショーケースのあたりまで足を進めた。


「何かお探しですか?」
美人な女性店員が頬笑む。


「サブマリーナを探しています」


「あいにく、サブマリーナの入荷はごさいません」


「非常に人気でして、一応、当店での入荷の実績はあるのですが、すぐに売れてしまうという状況です」


私は頷きながらショーケースのオイスターパーペチュアルなどに目をやる。
さっきの携帯電話の男は店内でも携帯電話片手に誰かと話していた。
話の内容までは分からない。



「ありがとうございます」
そんな男性の店員の低い声が聞こえてきた。
眼光が鋭くて一番背が高い店員だった。
そしてその傍らにはさっき携帯電話の男に話しかけていたデイトナの白髪男性がゆっくりと奥の方に向かって歩みを進めていた。
店員と共に歩いている。
2人は個室のようなところに入ってしまった。



店内には気がつけばたくさんのお客さんで溢れかえっていた。
みな、マスクをしているが、熱心に「サブマリーナはないか?」「スポロレを探しているのですが」
といった具合に店員に尋ねていた。
しかし、みな、店員の「入荷がございません」という一言で店を出てしまっていた。



僕も諦めかけ、店を出ようとすると美人女性店員は言った。
「本当に欲しいものをご購入くださいね」



僕はその意味を店員に尋ねたかったが、実際に発した言葉は以下の通りだった。
「今日、入荷の可能性はありますか?」

すると美人女性店員は言った。
「可能性はゼロではありません」


言い換えれば限りなくゼロに近い戦いということか。
僕は礼を述べて店を出た。
人通りも増え、休日のランチタイムムードになっている。
前回、訪れた時には入店さえもさせてもらえなかったことを考えるとまずまずの進歩だなと思った。



商店街をくぐり抜け、並行店に立ち寄る。
サブマリーナが展示されてある。キラキラと輝いている。
定価の遥か上をいっている。



「青サブの入荷なんてガセじゃないか」
スマホを訳もなくスクロールしながら心の中で言った。

昼食は適当にパスタと自家製パンを食べた。
若い女性だらけで恥ずかしかった。

しかし、女性だけではないとすぐに気づいた。
斜め向かいの客席にあのデイトナ白髪おじさんがいたのだ。
2人がけのテーブル席の壁側に座り、テーブルの上にはなんとロレックスの手提げ袋のようなものが置いてあった。


「失礼ですが、これ、ロレックスですか?」
そう聞かずにはいられなかった。
幸い、デイトナおじさんはパスタを食べ終え、コーヒーでひと息ついているところだったので快く「そうですよ」と答えてくれた。優しい人だ。


デイトナおじさんは続ける。
「ついさっき、○○店で買ってきたんです」


そう言った瞬間、全身が凍りつきそうになった。
身震いしている。心拍数が上がっている。


なんと、さっき僕が並んで「ない」と言われたあの正規店だった。


しかし、中身は何か分からない。
スポロレではないかもしれない。
いや、でもデイトナおじさんは「サブマリーナが欲しい」と言っていた。
何を買ったのか知りたい。
でも今のこの状態のデイトナおじさんは自ら進んで話してはくれなさそうだ。
事実、愛想はいいが、私の質問に答えるだけという一問一答形式のコミュニケーションしかその場にはなかったからだ。
ならば、勇気を出して尋ねようか。
それとも、潔く、「失礼しました」と言ってその場を離れようか。
しかし、もし、この袋の中に入っているものがサブマリーナなら、あの美人女性店員やその他大勢の来店客に言っていた「入荷はごさいません」は嘘だということになる。



「失礼ですが、これ、中身は何が入っているんですか?」
勇気を出して、最初、デイトナおじさんに話しかけた時と変わらないような定型文風質問で尋ねた。
するとさっきまでの穏やかなコーヒーの似合う愛想のいいリッチなおじさんという雰囲気が一変して真剣な表情になった。
まるで鑑定士がレア時計の鑑定を行うみたいに。

「お兄さん、悪いが、それは簡単には教えられない」
デイトナおじさんはそう言った。
さっきと目つきも変わっている。
まるで別人みたいだ。
「簡単には」とはどういうことだろう。

僕は質問を変えた。
「今、腕につけていらっしゃるのはデイトナですよね?」

するとデイトナおじさんはまた穏やかな雰囲気に戻り、答えた。
「そうですよ。5年ほど前に同じお店で購入しました」
ニコニコとしている。



よかった。最初見た時の元のおじさんに戻った。
この流れでどんどん核心に迫ろう。
「ということは、今、袋の中に入っている時計は2本目のデイトナということですか?」
私はそう尋ねた。

「いいえ、デイトナではないですよ。デイトナは1本で十分です。そして、そもそもあのお店では今日の入荷はないと言っていましたよ」


それは分かっているよ、デイトナおじん。

そして、さらに追求を続ける。
「ならば、オイスターパーペチュアルですか?」

「いいえ、違いますよ」

するとデイトナおじさんは急用ができたと言ってその場から立ち上がった。
中身が何か知ることができなくて悔しかったが、デイトナおじさんを無理やり引き止めることはできない。

「突然、失礼しました」
そう言い、私も店を後にした。


お腹は満たされたが、何かが全く満たされていない。それはある意味では睡眠欲だろうし、ある意味では性欲だろう。しかし、正確にはそのどれもが該当しない。
そう、満たされていないのはサブマリーナを手に入れられていないといういわばロレックス欲だ。
そして、あのデイトナおじさんが手にしていたロレックスの手提げ袋の中身を知ることができなかったということ。






そして、また商店街をぶらぶらする。
「気持ちを落ち着かせるために並行店に行こう」
そう思ったのはランチを取ってから30分後のことだった。派手なロレックスの写真などが出入口に掲げてある、さっきとは別の並行店に入ってみる。
中では白髪の男性がデスク上で店員と書類のやり取りをしていた。

まさに、だ。
「さっきのデイトナおじさんじゃないか」
偶然の再開を果たした。しかし、デイトナおじさんはデスクの向こうの店員とデスク上に並べられた書類を交互に見ているので私の存在には全く気づいていない。
相手が気づいていない以上、まだ再開とは言えない。
私の存在に気づいたらどんな顔をするのだろうか。
そんな好奇心もわいていた。
ちょっと図々しい人になっているだろうか。
でも、それ以上にあのデイトナおじさんが持っている手提げ袋の中身が気になってしまう。


そっと近寄り、デスク周辺を確認する。
デイトナおじさんが持っていた手提げ袋はデスクの端に置いてあるだけで、それ以上は何も確認できない。しかし、すっと目線を左にそらすと、なんと、そこには光り輝くサブマリーナがあった。
しかも、私が狙っていた青サブだ。
正規店で「在庫がない」と門前払いされた青サブだ。
正真正銘のスポロレ、サブマリーナだ。
デイトナおじさんは購入したばかりの青サブを査定してもらっている最中だった。
ここでもまた眼光の鋭い店員が虫眼鏡を使い、他には時計の夜光塗料を確認できるような機械を使ったりしながら新品の保護シールさえ剥がされていない青サブを入念に確認していた。
歌舞伎の睨みのように店員の目がぎょろっと上を向いたり横を向いたりしている。
そして、少しの沈黙の後、店員が言った。
「800万円でいががでしょうか」
「喜んで」
即答でそう言ったデイトナおじさんの語尾は上がり、店員もニコニコしてお互い嬉しそうにしていた。
だが、私はちっともうれしくない。


その青サブは定価の2倍以上で取引されていた。
信じられないと思った。
同時に正規店で購入できていない自分自身が受け入れがたい事実としてそこにあった。



100万円の帯封つきの束が8つ、デスクの上に積み上げられている。
帯封つきだから数えてすらいない。
そしてその隣にはキラキラと輝いている青サブがあった。
デイトナは変わらず腕に巻きつかれている。
どうやらそれは売らないようだ。



私はデイトナおじさんが振り返るのを待った。
じっと待った。


しばらくすると、デイトナおじさんは札束を受けとり、イスから立ち上がった。
そして、こちらを向いた。

その瞬間、私は言った。

「おたく、それ(青サブ)、最初から売る気で買ったのか?」

そう問いつめるとデイトナおじさんはびっくりした表情を見せた。少し青ざめているようにも見える。
そして、無言で固まっていた。


「やっぱり青サブだったんだな」

私は一目散に、さっきの正規店に戻った。
そして、間髪をいれず、店長らしき背の高い男性に話しかけた。

「さきほど、購入されたご老人の方、さっそく売ってましたよ」

すると男性(おそらく店長)は拳を強く握りながら言った。
「この野郎…」。
そして、他の店員はみな「こんちくしょー」と叫んでいた。
あの対応してくれた美人女性店員も「こんちくしょー」と言っている。


「今、どこにいるか分かりますか?」
そう言われ、デイトナおじさんがいる並行店の場所と名前などを告げた。
すると、店長らしき背の高い男性が他の若い男性店員に目配せした。
そして、男性店員が2人、店を飛び出して行った。




「情報提供ありがとうございました。ところで今日は何をお探しですか?」

男性(おそらく店長)は優しい穏やかな口調で言った。

私が答える。
「青サブを探しています」


すると男性(おそらく店長)は言った

「少々、お待ちくださいね」


何やら奥の方に行ってしまった。
周りでは相変わらずお客さんでにぎわっている。
「サブマリーナありますか?」
デイトナありますか?」
世代や男女問わず、店員はみな、それらのお客さんに対して「本日の入荷はございません」と答えている。


ちょっとよろしいでしょうか?」
店長が戻ってきた。
私はさっきデイトナおじさんが案内されていた個室に入った。



中にはデスクとイスがあるのみだ。
店長はイスに座るようすすめる。


「たった今、入荷して検品中の青サブがごさいますがいかがでしょうか?」



私は見たいと即答した。


すると、緑の上品な箱から宝石のような青サブが顔を覗かせた。
「きれいですね」


私はそう一言感想を述べた。
そして、さっそく、定価の○○○万円の支払いを現金で済ませ、店長と握手を交わし、お店を後にした。
帰り際、ロレックスの全店員が私にお辞儀をした。
夕日がまぶしかったので影のようにしか見えなかった。
私がさっそくつけた青サブも光に反射してまさに宝石になっていた。
そして秋のちょっぴり冷たい風が肌に心地よかった。


その後、スマホで実勢相場を調べるとすでに定価の2倍どころか3倍、4倍に膨れ上がっていた。
しかし、私がこうして手にした青サブはその価格よりも遥かに価値があるように思えた。
とてもじゃないが手放せないと思った。
お金に換えられるものじゃないと思った。
この青サブと共に時を(人生を)(余生を)刻んでいきたいと胸に誓った。


ロレックスのことばかり考えていたからだろうか。
こんな夢を見てしまったのは。
畳の上の敷き布団にはいつも以上によだれが垂れていた。
おわり

デイトナおじさん(あらすじ)

何としてでもロレックスを手に入れたい私は正規店に何度も足を運ぶが、いつも店員からの返事は決まって「入荷がごさいません」。
そんなある日、いつものようにその正規店に行くと凄まじいほどの行列が。
中にはデイトナを身につけた高齢のお客さんもいる。
これは何かある。
そう思っていると、スーツ姿の店員が中から足早に出てきた。


公開日未定作品